お能の拍手について考えてみた

本日は金春流宗家による「伯母捨」という老女物の大曲を拝見しました。この曲は、伯母捨山に遺棄された老女の霊が月見の客を前に月光の功徳を礼賛しつつ舞うが、夜明けと共に客は去り老女はまた一人淋しく残される、という終わり方でして、この最後がものすごく余韻が残って好きな場面です。

本日も余韻を噛みしめていたのですが、おシテが橋懸かりの半分もいかないうちに拍手が起こってしまって(しかもぱらぱらと中途半端な)うぅぅーーん、せっかくの余韻がぁぁーー・・・・。

能の演目が終わった際、歌舞伎などと違って幕が引かれることがないので、どのタイミングで拍手すれば良いか悩むことがあります。

昔は拍手はしなかったようです。今でも始まる時や演者が登場した時に拍手する人は誰もいません。
最後の拍手は??これは現在はいろいろ議論にもなっているようです。

能の演目の終わり方は、舞台上に演者が全員残ってピタっと止まって終わる、シテや他の演者が橋懸かりから幕に入った後に終わる、などいろいろなのですが、全員が退場してしまい舞台上に誰もいなくなって終わることはなくて、少なくとも地謡と囃子は最後まで舞台上に留まっています。なので、どんな演目でもお話が終わった後にゆっくり歩いて退場する人が必ずいます。

いったいどこが終わりなの?という感じなので、シテが幕に入るとき拍手、子方が幕に入るとき拍手、ツレが幕に入るとき拍手、ワキとワキツレが幕に入るとき拍手、アイが幕に入るとき拍手、後見が作り物を下げるときも拍手、地謡が切戸口から出るとき拍手、笛、小鼓、大鼓、太鼓がそれぞれ橋懸かりを歩いてるときに拍手、というぐあいにダラダラ~と拍手が続き、長時間続くために中ほどはパラパラとまばらな拍手だったりします。

これでは、折り目がはっきりしないし、本当に感動して拍手しているのか、義理や惰性で拍手しているのか、よくわかりませんよね。

私の意見では一般的には最後に一回だけ大きく拍手をすれば良いのではないかな、と思います。だいたい、お囃子の最後の人が幕に入るときでいいのではないでしょうか。慣れない人はどこで拍手したら良いかわからないと思うので、周りの雰囲気に応じていいと思うんですよね。

ちなみに私は拍手はしない方針です。以前は周りの雰囲気に応じてしていたこともあるのですが、前々からダラダラ拍手を疑問に思うことが多くて、いっそ全く拍手しないと決めたら気が楽になりました。拍手しないからといって舞台が良くなかったと思っているわけでもありません。ひょっとして拍手がないと不安と思われる演者さんもいらっしゃるでしょうか。その辺りを聞いてみたいところです。

何事もなかったように終わって、暫しの間、余韻を噛みしめるっていうのも良いんじゃないでしょうかね。かつて、全く拍手無しで終わった素晴らしい舞台を観たことがあります。感動のあまり誰も拍手できなかったんだと思います。演者のレベルもですが観客のレベルも高かったのだと思います。観客も一緒に舞台を作っているのだと思った瞬間でした。

次回は【文楽での大向こうについて考えてみた】を書きたいと思います(1年後くらいに?笑)。

noh_hakushu

「お能の拍手について考えてみた」への1件のフィードバック

  1. 私は学生時代から50年近く能楽堂に足を運んでますが、拍手はしたいときにすればいのではないかと思います。訳知り顔で評論家が拍手しないものと言うので、狂言でやるまいぞ、と幕に入る時に拍手しても、初心者に睨まれたり、不自由で不機嫌で仕方ありません。素晴らしい、感動したら拍手で何が悪いのでしょうか

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