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国立能楽堂の企画公演「松囃子-祝祷芸の様々-」

国立能楽堂の企画公演、松囃子-祝祷芸の様々- を拝見して参りました。

開演前に能舞台の上には三方が置かれ、白米を盛り、岩山に見立てられた黒い炭、唐辛子のくちばしと茗荷の尾で作られた鶴、椎茸の亀が飾られていました。
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菊池の松囃子「勢利婦」

松囃子とは室町時代に流行した初春を祝う芸能だそうです。
熊本県菊池市の御松囃子御能保存会によって上演されました。。
舞人が一人、お囃子は太鼓1名、大鼓2名で、小鼓と笛はおりません。
また後ろにはバックコーラスを行う地方が今回は8名(数は決まっていないそうです)。
舞人は立烏帽子に直垂姿で紙垂が付けられた大きな笹を持っていました。他の出演者は全員、半裃姿です。
一同、最初と最後に正面席に向かい拝礼します。昔は将軍様へのご挨拶だったのでしょうか。
何度か出てきた「松やにやに、小松やにやに」という言葉がちょっと面白いと思いました。
三番叟を彷彿させるような軽快な動きのかっこいい舞でした。

舞囃子「高砂」

一流どころのお囃子方をバックに、宝生流の若き宗家が力強く爽やかに舞いました。全員、紋付袴ではなく素袍裃で、常の舞囃子よりも儀式的なおごそかさが増し正月らしいおめでたい雰囲気が漂いました。

狂言「松囃子」

この演目は初めて観ました。シテは最近お気に入りの名古屋の野村又三郎さん。またお会いできましたー(*´▽`*)

ある兄弟の家に毎年正月に松囃子の祝儀を舞うために来る万歳太郎が、年の暮れに送られてくる米が今年は届かなかったので兄弟の家に様子を見に行くと、兄弟ともに米を送らなかったことをすっかり忘れていました。しかし、兄弟は何にも知らずにいつものように松囃子を求めます。大切なことを忘れられてしまったので、太郎はテキトーに舞ってすぐに帰ろうとします。不思議に思う兄弟ですが、そのうち、兄が米のことを思い出し、続いて弟も思い出し、太郎は今度はきちんと「鞨鼓」を舞って新年を寿ぐのでした。

太郎が兄弟に思い出させようとしてあれこれ遠回しに言うのですが兄弟になかなか伝わらないなど前半はコミカルなやり取りが面白く、後半はおめでたい鞨鼓の舞の芸を堪能することができ、なかなか見応えのある楽しい曲でした。

狂言「靭猿」

茂山逸平さんとご長男・慶和くんの親子が猿曳きと猿を勤められました。大名役は逸平さんのお父様の茂山七五三さま、お兄様の宗彦さんが太郎冠者という三世代共演。

「猿に始まり、狐に終わる」と言われる狂言の修行。子方としてデビューする初舞台が「靭猿」ということです。慶和くんの初舞台は4歳の時に「伊呂波」で、靭猿は昨年5歳で初めて勤めたそうです。

子方は猿の面をかけて着ぐるみを身にまとい、四つん這いで歩いて鳴き声を発し、猿のようなしぐさをします。舞台に登場するだけで可愛らしさに見所の雰囲気をなごませる子方の存在ですが、この役では特に、大人たちが演技を続けている長い時間、足をかく、顔をかく、お尻をかく、横向きに転がる、などといった動作を休むことなくずっと続けていたのが本当に健気でした。基本的に同じ動作を繰り返しているだけなのですが、面をかけているし常に動いているのでかなりシンドイのではないかと。また、後半は猿挽きの謡う猿歌に合わせて芸をしますが、大名をひっかこうとしたり寝転んだり月を見たり稲を刈ったりと、結構バリエーションがあり、これが6歳の演技なのかとビックリするほどの密度の濃さです。本当によく頑張りましたねと褒めてあげたいです(*^_^*)

前半は大名が権力で靱に張るために猿の皮を得ようとし猿曳が拒絶して去ろうとするが大名が怒り出し射殺そうとする緊迫した場面、また、猿曳きが大名のあまりの剣幕にやむなく猿を自らの手で殺すことを一度は決心しますが、猿が殺される運命を知らずに芸をしようとするのを見て、子猿の頃から育てて芸を仕込んできた猿を殺すことはやはりできないと泣く場面と続きます。しかし大名もその哀れさに同情し、猿の命を奪うのをやめます。猿曳はお礼に猿歌を謡い猿に芸をさせますが、大名は楽しくなって自らも一緒に舞ったり、自分が身につけているものを次々とご褒美に与えてしまうなど、前半は我が儘で横暴でしたが一転してお茶目なキャラに(笑)

緊迫した場面、悲しい場面と数回のドラマ展開があり、最後には楽しくおめでたい雰囲気で終わる演目で、久々に見ましたがやっぱり大満足でした。

第二回「立合狂言会」東京公演

喜多能楽堂で「立合狂言会」を拝見して参りました。
大蔵流と和泉流、またその中でもいろいろな家の狂言師が一堂に会して演じ合う狂言の会です。

オープニング、この公演の世話役でもある野村万蔵さん(和泉流)と茂山千三郎さん(大蔵流)のお二人がご登場。

狂言では流派や家が違うと一緒の舞台に立つということがほとんどなく、能の会に呼ばれても家単位のため、わかりやすく言えばお互いライバル。
異なる流派や家が一緒に演じ合うことで芸の向上と交流を目的に企画、と公演の趣旨の説明があり、その後、お二人のまるで漫才のような楽しいトークで流派や家の違いなどが語られます。

そして、実際にどう違うかの実演も。

まずは「附子」の水飴の食べ方を万蔵さんと千三郎さんそれぞれに行います。
千三郎さんの方がとーーーーっても美味しそうに食べてました(笑)

次にお互いに酒を酌み交わします。酌する方もされる方もやり方が微妙に違います。
お酒の飲み方もどちらかといえば千三郎さんの方が旨そうでしたね(笑)

茂山家はリアル・誇張、野村家はスマート・上品、といたずらっ子ぽく違いを述べる万蔵さん(笑)

茂山家はセリフが余分に多いよね、余分なものを削ぎ落とすのが狂言だと思うんだけど、と万蔵さん。でも、台本的には野村家の方が多いよね、繰り返しとか、余分だよね、と千三郎さん。
なんかいろいろ揶揄し合っているようにも聞こえますが、言いたいことを言い合える仲ということ。あぁ、このお二人は本当に仲がよろしいのね~と微笑ましくやりとりを拝見 (*´∀`*)

台本的には大蔵流はそれぞれの家であまり違いがないそうで、和泉流はそれぞれ違ってたりするんだそうです。
和泉流は元々違う流派が寄せ集められて作られた流儀なので。だから仲悪いんですよ~、と万蔵さんが軽くジョーク(笑)。

演技的にはこんな位置関係みたいで。
茂山家(大蔵)<野村家(和泉)<山本家(大蔵)
(柔)<-------->(堅)←語弊がありますがあえて言えばこんな感じ?

私の印象はこうです(笑)
茂山家≦野村家<<<<<山本家

私もこれまで和泉流と大蔵流をまんべんなく観ている方だと思うのですが、野村家と茂山家の違いって何?と言われても正直はっきり説明できないんですよね~。それぐらい近いように感じていました。山本家だけは全く違うってわかるんですけど(説明はできないけどモノマネはできます。笑)。

しかし、同時に同じことをやっていただくと、やはりはっきり違いがわかりますね。あ、なんだ、全然違うじゃん!と思いました。

さて、ここで名古屋の野村又三郎さん(和泉流)も加わり、三人同時に小舞「土車」を謡い舞います。
舞は想像していた以上に差がありました。大蔵流が違うのはわかるけど、同じ和泉流でも万蔵さんと又三郎さんでもかなり違いました。
三人で別々の舞をしていてぶつかったりしないのが不思議~。
それでもやはり同じ曲ですから、ぴったり合うところもあります。

同じ部分と異なる部分が混在しているために、相違部分が華やかさと奥行きや幅を生み、共通部分でまとまりがついて締まる感じで非常に面白かったです。江戸城謡初式の三流宗家による舞囃子「弓矢立合」もそんな感じだったなぁ~と遠い目(´ェ`)。

さていよいよ狂言の上演です。番組は以下の五番。
「佐渡狐」大蔵流・山本東次郎家/善竹十郎家
「酢薑」和泉流・三宅狂言会
「簸屑」和泉流・狂言やるまい会
「棒縛」大蔵流・茂山千五郎家
「佐渡狐」和泉流・野村万蔵家

特に「佐渡狐」は異流対決!ということでしょうか、同じ曲をぶつけてきました。やるね!(¬_,¬)b
立合狂言会でも、これは初めての試みだそうです。

さらに、大蔵流の佐渡狐は山本家と善竹家の両家が同じお芝居で共演ということで、これまた珍しいことです(最近はこういう上演形態をたまーに見かけるようになりましたけど、やはりよほど狂言を見まくっていないとなかなかお目にかかれないです)。しゃべり方の調子がまるで違っていますけど、台本は同じと思いますのでそれほど違和感はなかったですね。

「佐渡狐」を見比べた印象ですが、ストーリー的にはほぼ同じでした。でも細かいセリフや所作はいろいろ違っていました(鶏が鶯だったり、袖の下の受取り方とか)。流派でストーリーが大きく違う演目を比較するのは国立能楽堂の企画公演でもありましたが(その時は「鎌腹」で結末が全然違っていた!)、ほぼほぼ同じなのに細かく違うところを意識しながら観るのは間違い探しのようで楽しかったですね~。

この中で初めて拝見したのは「簸屑」。野村又三郎さんのお父様はあまりお好きでなくて出さなかったそうで、現在の又三郎さんはなるべく出すようにしていると仰っていました。そうそう、埋もれたお宝を後世に伝えるってのも大切なことですよね。

次世代を担う若手の狂言師が集い研鑽を積む公演」とご挨拶文にもありました通り、どの演目も若い力が大活躍のフレッシュでエネルギーにあふれる舞台でしたね~。

流儀は同じだけど違うお家の方がそれぞれの後見を勤められていたのも印象的でした。使う小道具が違っていたりするそうなので油断できないですな(^_^;

さて、お名残惜しくも五番の狂言が終わり、最後に出演者全員が再登場して附祝言「猿歌」が謡われました。
最初に和泉流から謡い出し、大蔵流が途中から入ります。大蔵流の方が人数が少なかったんですが、負けてはいませんでした。最後は大蔵流の方が声が大きかったです。やはり良きライバルと競い合う雰囲気が素晴らしいですね♪

附祝言が終わり全員が退場。皆さんいつもの舞台の時のようにまっすぐ前を見て橋掛かりを歩み退場しましたが、最後の千三郎さんだけが客席に向かって会釈されていました(お茶目♡(^o^))。

これで本日の公演は終了~というアナウンスもかかり、観客が帰り支度を始めているところ、出演者の方々が舞台の上に再登場(カーテンコール!?)
これから出演者の記念撮影をするので、みなさんも自由に撮ってもらって楽しかったと書いて拡散してくださいね~と仰っていただき、大撮影大会が始まりました。
全員での「大笑い」を動画撮影させていただいたり、脇正面席の方も向いてください~というリクエストにも応えていただいたり、なんかもうファン感謝デーみたいな感じで本当に楽しかったですぅ~(*´▽`*)

久々にワクワクする公演を拝見できたって感じでしたね~。これで3000円ってめっちゃ安くないですか!?(正面席は4000円)。先だって行われた京都公演では出演のお家も演目も違っていたので、両方観れば良かった!とまで思いました。来年も行われる予定のようですね。とても良い企画だと思うのでぜひ長く続けていただきたいです!\(^O^)/

第73回 野村狂言座

今年初めの野村狂言座を拝見。素囃子の神舞に狂言四番と年初にふさわしい豪華なラインナップ。

「松楪」
祝言的な演目。前半お決まりのやり取りが寄せては返す波のようでついつい眠りの世界へzzz。最後に二人が一体となって舞うのは珍しく面白かった。

「磁石」
名古屋の野村又三郎さん一門がゲスト出演。又三郎さんは近ごろ東京の舞台で何度かお見かけする機会に恵まれ、お若いのに貫禄も実力も十分でキャラクターも良くファンになりつつある。又三郎家の「磁石」は同じ和泉流でも万作家とはまた違うのだそう。どこがどう違うかまではわからなかったけど、とても楽しく拝見した。

「節分 替」
「替」と付くのは小書き(特殊演出)で、通常はシテが謡いながら舞うところ地謡が出て代わりに謡う。老熟の域に達した万作さまの体力を考慮しての新たな演出とのこと。また、万作さまは最初は鬼の面をかけて登場するのだが、途中で(舞が本格的に始まるあたりで)面を外された。これはストーリー的には不自然な感じがしたので、やはり体力面を考えてのことなのだろうか。最初からそういう演出だったのか舞台上の機転なのかはわからない。

実はこの「節分」、チラシには袴狂言(=装束をつけない)で演じると掲載されていた。しかし、実際には装束をつけて上演された。鬼の面をつけて謡ったり舞ったりするのは体力的にかなりきついために袴狂言にするつもりだったのだろうか。装束をつけるよう変更した理由の説明は特になかった。

このところ万作さまは舞台上で動いた後に呼吸が荒くなることが多くなっている。昨日はかなり後方の席だったのに息づかいの音がはっきりと聞こえて心配になるほどだった。しかしながら、身体的な表現はいまだ全く見劣りしない。型や足取りはしっかりしていて座った姿勢から立ち上がるときも全くぶれないし、転がったり跳んだりも問題なく。ご高齢のためにお声は小さくなり心肺能力は衰えてきているとしても、身体の強靱さと動きの正確さは84歳の年齢を感じさせず、まさに超人的。

鬼が人間の女に心を奪われて小歌を謡い艶っぽく口説くところは「花子」を思い出させる。鬼が女に袖にされて「エーンエーン」と泣くところで多くの観客は笑っていたけれども、私は一緒に泣きたかった。万作さまが演じられると笑いだけに留まらず愛や悲しみや皮肉もいろいろ入り交じった深いドラマになるような気がする。芸域の深さってこういうところに出るんじゃなかろか。

「仁王」
これは登場人物も多く素直に笑える表現が多くて文句なく楽しい演目なのだが、近くの席に最初から最後までけたたましく爆笑している人がいて、それが少しばかり体調の悪かった私にはストレスになってしまった(不運)。そのせいなのか、いつも濃いめの演技の萬斎さまが今回は特に脂っこく感じてしまったな。シテの石田幸雄さんは相変わらずとても良かった。

全体として盛り沢山の内容であったが「やっぱり万作さま!」の一言に尽きる。「節分」だけ観たとしても来た甲斐があったと十分に思わせるこの存在感。ご高齢でお身体の心配はついて回るし、苦しそうな息づかいでお気の毒に感じることはあるのだけど、まだまだお舞台を拝見し続けたい!と切に願う。

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宝生能楽堂ロビーに飾られている鏡餅

国立能楽堂特別公演「朝比奈」「木賊」

本日は国立能楽堂の特別公演を拝見し、本年の観能納めとなりました。
演目は仕舞「雲林院」、狂言「朝比奈」、能「木賊」です。
狂言「朝比奈」のシテは野村万蔵さん。本日お誕生日ということで佳き日に大曲をご立派に勤められまことにおめでたいことです\(^O^)/
普段、狂言を拝見した後は「面白かった」もしくは「芸が深い」などという感想を抱くことが多いのですが、本日の感想はズバリ「めっちゃかっこよかった!」でございます(*^_^*)
野村万蔵さん演じる朝比奈は、地獄に責め落とそうとする閻魔大王を力強く突き飛ばし、堂々と戦語りをするところなど、初めから終わりまでとにかく強くてカッコイイのです!
一方、野村又三郎さん演じる閻魔大王は、閻魔さまなのにどこか人間くさくて威厳があまりなくて愛嬌があり、朝比奈をひきたてる非常に重要な役だと感じました。
このお二人とてもよく息が合っていて絶妙な掛け合いで終始引き込まれて最後まで目が離せませんでした。お家が違うので共演機会はあまりないそうですが、このコンビでのお舞台をこれからも度々拝見したいなぁ~。
お囃子や地謡が入り能の様式を取り入れた重厚かつ華やかな演目でとても見応えがありました!
能「木賊」。これはめったに出ない稀曲で私も以前には1回しか観たことがありません。今回抱いた正直な感想は「これは難易度が高い曲だな…」…でした。
演者にとって難曲であることは間違いないと思います。一方で観ている方にもレベルの高さが要求される曲という印象を受けました。
そう感じた理由はいくつかあるのですが、その最たるものは(私だけかもしれないですが)「感情移入できなかった」ことです。
これは、子を探して物狂いになる親が母でなく父である、しかも老親。子方は幼い子どもが演じていているゆえに孫にしか見えない。子方がひと言も発しないので子ども側の思いが伝わってきにくい。といったことが原因かと思います。
ここで私が感情移入できないのは曲のせいでもなく演者のせいでもなく、単に私に想像力が不足しているためだと思いました。能は観る方の想像力が必要な芸能です。観たまま理解しようとするのではなく、想像して感じなくてはならないのです。まだまだ修行が足りませぬ!来年からは顔を洗って出直しまーす(^_^;
自分の未熟さがわかった以外は、やっぱり素晴らしいお舞台でした。梅若玄祥親分の謡は体全体が楽器のようによく響いて聴いていてとても心地良かったです。シテ柱にもたれてしばらく佇み悲しむシーンが切なくて心に響きました。お囃子も一噌仙幸さま、大倉源次郎さま、亀井忠雄さまという豪華出演陣でそれはもう申し分なくたいへん素晴らしかったです。
画像は今公演に関係あるイラストと写真です。何のこっちゃと思われた方は各写真のキャプションを読んでね(^_-)-☆

「木賊」(とくさ)とはこんな植物。細かく縦筋の入った堅い表皮が研磨材として使われたためこの名(=研草)がついたそうです。ちなみに私はこの名前を知る前はニョロニョロと呼んでいました(^_^;
「木賊」(とくさ)とはこんな植物。細かく縦筋の入った堅い表皮が研磨材として使われたためこの名(=研草)がついたそうです。ちなみに私はこの名前を知る前はニョロニョロと呼んでいました(^_^;
朝比奈はこのような七ツ道具を担いでとても強そうなのだ☆ 七ツ道具といいつつ5つしかないよな・・・(´・ω・`)
朝比奈はこのような七ツ道具を担いでとても強そうなのだ☆ 七ツ道具といいつつ5つしかないよな・・・(´・ω・`)
今日一番目が釘付けになったのが、木賊のシテが後半に身につけた装束の柄です!能でこんなポップな柄あってもいいの!?と思ってしまいましたが、解説を読むと「子方用の美麗な掛素袍」とありました。なるほど!可愛いな(*´▽`*)
今日一番目が釘付けになったのが、木賊のシテが後半に身につけた装束の柄です!能でこんなポップな柄あってもいいの!?と思ってしまいましたが、解説を読むと「子方用の美麗な掛素袍」とありました。なるほど!可愛いな(*´▽`*)

萬狂言特別公演~大曲二題~「枕物狂」

大曲二題、続きましては、野村萬さんがシテを勤められた「枕物狂」についての鑑賞レポートです。

「花子」レポートはこちら
萬狂言特別公演~大曲二題~「花子」

「枕物狂」あらすじ
百歳を越えた祖父(おおじ)が恋に悩んでいるという噂を聞いた孫二人が想いを叶えてあげたいと祖父に話を聞きに行く。最初は志賀寺の上人や柿本の紀僧正の昔の恐ろしい恋について物語っているうちに、いつの間にか自分の恋心を謡い上げてしまう祖父。祖父の意中の女性が地蔵講の折に見かけた刑部三郎の娘の乙御前(おとごぜ)であることがわかり、孫の一人が乙御前を連れてくる。祖父は老いの恥を晒した恨み言を謡うものの、嬉しそうに乙御前と連れ立って行く。

シテの祖父を人間国宝の野村萬さん、孫を野村虎之介くん、野村拳之介くん(二人は萬さんの実のお孫さんでもあります)、そして祖父が恋する相手の乙御前を、先ほど「花子」でわわしい妻の役を好演した野村又三郎さんが演じられました。

この曲には地謡とお囃子も登場し、とても格調高い雰囲気です。

祖父は笹の小枝を手に持って登場します。笹には小さな俵型の枕が結びつけられています。笹は「物狂い」の象徴で、枕は「恋愛」の象徴なのだとか。なので、この笹のことを「狂い笹」といいます。狂言や能での「物狂い」とは、頭がおかしくなっているということではなく、精神が高揚して神がかっている状態のことを言うのだそうです。

枕がゆらゆら揺れる笹を持った萬さんは、時折、ひょい、ひょいとよろめきながら、橋懸かりをゆっくりと進みます。このひょい、ひょい、という感じが狂言らしくてとてもキュートです♡

本舞台に入ると床机にかけ、孫二人にちゃんと聞くのだぞと言って話して聞かせます。謡がかりで語るというのがまた祖父の教養の高さや上品さを表している感じがしますが、ひょっとしたらおじいちゃん、自分の恋バナを素の会話でするのがちょっぴり恥ずかしかったので仰々しい謡いで語ったのかもしれませんね(笑)

孫が連れてきた乙御前が頭上にかぶった衣をはずすと、そこには可愛い「乙」の面をした女の子が!「乙」の面は、おかめ、おたふく、お福、などとも言われる、愛嬌のある女面ですね。乙御前が顔を出した瞬間、客席からも温かい笑い声が。祖父のお相手が、ものすごい美人っていうわけでなく、味わい深い顔立ちの娘だった、というんで、観てる方も何だかホッとしてます(やはり、おじいさんにはあまりギラギラしてほしくないと皆さん思っておられるのだなぁ~。笑)。

最後、祖父は嬉しそうに乙御前と仲良さそうに連れ立って行き、ハッピーエンドです。乙御前が本当に祖父のことを受け入れたのかはわかりませんが(笑)ほのぼのするお話でしたね~。

「枕物狂」は三老曲の一つとして重く扱われており、披きの年齢もそれなりです(60~70代くらいでしょうか)。しかし、年齢さえ重ねれば誰しもこの役がちゃんと勤まるかというとそういうわけでもなさそうです。やはり謡いがかりの語りなどテクニックが必要な部分に加えて、これまで長年の修行で積み重ねてきた自分なりの芸というものを反映していくことによって、味わい深さや枯れ感、ちょっぴり色気、その他もろもろ祖父のカラーが、十人十色ににじみ出すもののように思えます。

萬さんは御年85歳で、百歳にはまだまだ遠いご年齢ではありますが、非の打ち所のない演技を見せていただき、今がまさに枕物狂適齢期なのだと感じました。しかし、さらに年齢を重ねた萬さんの枕物狂をいつかまた拝見したい、と熱望するのは贅沢なことでしょうか?

さて、今回は「花子」「枕物狂」という狂言の大曲二番の他に、観世流シテ方による能の仕舞と舞囃子が上演されました。仕舞「班女」は鵜澤光さん、舞囃子「恋重荷」はシテ・野村四郎さん、ツレ・鵜澤光さん。「班女」は「花子」の設定元となった作品であり、「恋重荷」は老人が高貴な若い女性に恋する物語で、その謡が「枕物狂」に引用されています。

「恋重荷」の舞囃子の時に、重荷の作り物が出ていたのが印象的でした。通常、舞囃子で作り物が出されることはありません。後でお伺いしたお話でこの公演での特別の演出であったことがわかりました。

余談ですが、ワタクシ以前から野村四郎さんの舞姿に憧れておりまする(*´▽`*) 仕舞入門のご本やDVDも持っておりましてそれを見ながら家でお稽古しています♪ 今回、四郎さんの舞囃子まで拝見できてテンション上がってしまいました↑↑

演目、演出、配役、何をとっても大胆かつ繊細な工夫が凝らされ、また、厳選された出演者陣の達人芸が堪能できる素晴らしい公演でした。観に行けて本当に良かった!!

万蔵さま、襲名十周年まことにおめでとうございます。これからも頑張ってください~~\(^O^)/

萬狂言特別公演~大曲二題~「花子」

九世野村万蔵襲名十周年記念、また、万蔵さんが五十歳を迎える年でもあるということで、今回この節目の会を拝見する幸運に恵まれました。この特別公演では、「花子」「枕物狂」という大曲二題と、両曲に関係の深い、能「班女」の仕舞、能「恋重荷」の舞囃子が上演されました。

まずは野村万蔵さんがシテを勤められた「花子」についての鑑賞レポートです。

「花子」配役
シテ 夫    野村万蔵
アド 妻    野村又三郎
アド 太郎冠者 井上松次郎

京都の洛外に住む男(万蔵さん)がおりました。男が美濃国で馴染みとなった遊女・花子(はなご)が、男恋しさに都に上り、会いたいとしきりに文を寄こし、終いには身投げまでほのめかします。男も会いたいとは思うのですが、男の妻(又三郎さん)はかなり嫉妬深く、とても会いに行ける状況ではありません。
なんとか家を出ることができるよう男は妻に「夢見が悪いから諸国行脚したい」などと言って家を出ようとしますが、妻はどうにも許しません。

そこで男は「一晩だけ持仏堂にこもり座禅を行う」と偽り、妻を承諾させます。そして「それならば自分も持仏堂に行き夫を見舞おう」と言う妻に、来てはならないと何度も念押しします(←この辺りで鶴の恩返しフラグが。笑)。

男は嫌がる太郎冠者(松次郎さん)に無理やり座禅衾(ざぜんぶすま)をかぶせて自分の身代わりをさせます。そして、花子の元へ颯爽と向かうのです(この瞬間の万蔵さんの嬉しそうな様子といったら!笑)。男はいったん揚幕から退場。

妻は来てはならないと言われたものの、やはり夫のことが心配になり持仏堂に様子を見に来ます。すると衣を被った夫がとても窮屈そう。可哀相に思い衣を取ろうとします。必死に抵抗する太郎冠者!(そりゃそう、バレては大変です。笑) しかし、ついに太郎冠者は衣をひっぱがされてしまい、妻は夫に騙されていたことを知ります。地団駄踏んで悔しがる妻!

妻は太郎冠者に代わって衣をまとい、太郎冠者に見えないところで休むようにと言い、夫の帰りを待つことにします。

花子との逢瀬を楽しんだ男が朝帰りしてきます。肩衣を片方脱いで謡いながらのんびり歩いて夢うつつの様子。花子と過ごした一夜の余韻を楽しみながらも名残り惜しんでいる様子です。少し酔った感じです。歌舞伎化された「身替座禅」では本当に酒に酔っている演出になっているそうですが、こちらはまさに「恋に酔っている」ような艶っぽい雰囲気を上手に漂わせる万蔵さん。

二、三歌ったところで、男は太郎冠者に身代わりをさせていることをハッと思い出し、夢から醒めて我に返ります。

男は持仏堂に戻りますが、そこでまた花子との甘いひとときのことを思い出したのか、そのことを人に話したくなります(かなり恋に浮かれています。笑)。それで、そこにいる太郎冠者に話して聞かせようとするのですが、聞かせたいんだけど恥ずかしいから衣を被ったままで聞くように言います(当然、中身は妻なんですが。笑)。

男は花子との逢瀬の一部始終を小歌を交えて語ります。小歌は当時の流行歌なので、和歌や謡などに比べたら少し俗っぽいのかもしれませんが、現代の我々が聞くと古語っていうだけでかなり風雅に聞こえます。
語りだけで展開するのでなく、小歌を交えているため、逢瀬話が露骨に生々しくなることがなく、しかしほのかに艶っぽさは感じ取ることができます(実に良くできていますね~)。「寝乱れ髪をおし撫でて」なんてちょっとドキッとする歌詞もあったりしますが(〃▽〃)

男が宿の戸をたたいたところで、花子は「誰そよ」と言う。男が、自分以外には誰も来ないはずなのに「どなた」とは他にも待つような恋人がいるのかね、とイヤミを言う。なかなか会いに来なかった男に対して少し突き放すような態度を取った花子に、男がちょっと拗ねるようなところがまたいいですね~(*´▽`*)

そんなこんなのやり取りを、男は小歌と仕方話で語っていきます。この間、太郎冠者(実は奥方w)はひと言も声を発しないので(時々嫉妬に震える動作などはあり。笑)、シテの独演がしばらく続きます。

ついに夜が明け帰らねばならない時がきた辺りの語りに入りますと、これまでのウキウキとした調子から、ぐっと寂しい調子に変化します。
花子が袖をつかんで引き留めようとするのを振り切って男は別れを告げます。あぁ・・・この名残惜しい感じ・・・切ないですねぇ・・(;;)
「帰り道で花子の面影の立つ方を振り返って見たら月は細く残っていた。。。」・・・この余韻といったら!!!万蔵さん絶妙すぎて憎いほど上手い!と思ってしまいました。こんなにも想われる花子に私もなりたい(≧▽≦)!(笑)

そんな余韻のあと「…という話じゃ」と、あっさり素に戻る万蔵さん(笑)

男は太郎冠者(実は奥方様ww)に座禅衾を取るように言いますが、彼(彼女)はイヤイヤと大きくかぶりを振ります。それでも無理やり衣を引っぱがすと・・・!!! (皆様、ご想像の通り!(=´∀`ノノ゙☆パチパチパチ)。
中身が妻であることに気づいた夫、ひどくギョッとして(この表情、最高です!)抜き足差し足でそろりそろりと逃げようとします(絶対逃げられっこないのに~。笑)。これまでずーーっと黙っていた妻が、ヤイそこなヤツ!とばかりにドンッと足拍子を踏むと夫はビビってひっくり返ります(この辺りは期待通りのオーバーアクションです。笑)。
実は筑紫までお参りに出かけていたとか仲間と連歌の会に出ていたとか苦しい言い訳をしますが時すでに遅し。逃げていく夫と追いかける妻。狂言お決まりのラストシーンで二人は幕に入ります。

1時間以上の大曲です。大曲たる所以は、やはり型を伴った小歌と仕方話の長い独演、というのがメインなのでしょうが、うまく妻を騙して嬉々として愛人の元に走り、甘く幸せな逢瀬の夜を過ごし、そして別れの名残のため寂しさでいっぱいになる、といった男自身の心情の変化を上手に表現しつつ、舞台には出てこない花子のキャラクターや心情を男の語りを通じて見せることの難しさにあるのではないでしょうか。

今回花子を演じるのが十年ぶり三回目となる万蔵さんは見事にその難しさをクリアし、男と花子のラブストーリーを私たちの脳裏に投影してくださいました。そして、妻を演じた又三郎さん、太郎冠者を演じた松次郎さん、同じ和泉流でもお家が異なる実力派の方々が脇を固められていたこともスパイスとなり華やかな舞台になったと思います。

シテの装束と扇も鮮やかな色彩で美しく、この曲が特別に扱われていることを感じました。

今回この曲を観ていてふと思ったのですが、シテの年齢によって男のキャラや花子との関係性がかなり変わってくるんじゃないかなぁと。
万蔵さんは30歳、40歳、50歳とこの曲のシテを演じたわけですが、まだお若いのでエネルギーにあふれる男性と対等な女性の関係性に見えました。
私が以前に拝見したもう少々ご年配のおシテの花子は、枯れた男性が恋に迷うことで花子の母性みたいなものが見え隠れする面白いものでした。
どちらがいいというわけではなくそれぞれに面白いとは思うのですが、万蔵さんが60代、70代になってくると、さらに変化して面白い花子になりそうな気がします。

また万蔵さんの花子を拝見できる機会が巡ってきますように!

次回は「枕物狂」について書きます。