「杉本文楽・曽根崎心中付り観音巡り」@世田谷パブリックシアター、千秋楽を観てきました。
杉本博司さんという現代美術作家がプロデュースした作品で、東京では前売券が即日完売するほど人気の公演です。今回は当日券も出たようですが観られなくて悔しい思いをした人も多いと思います。
私は以前に杉本博司さんプロデュースの野村萬斎さん三番叟を観て、これはあまり好きではない!と思ってしまったので、その先入観もあり、少々構えて観てしまったかもしれません。
これ以降、この作品に対する思うところを書きますが、結論から言うと文楽自体は良かったですが、杉本演出はやはり好きになれませんでした。決して批判するつもりはなく、これは好き嫌いの問題なので、杉本ファンの方お怒りにならないでください。
正直申しまして、本公演で観た曽根崎心中ほどの感動には至りませんでした。昨年5月に本公演で観たばかりでその感動をまだ覚えていますので、もっと間が空いていれば少し感想は違っていたかもしれません。
演劇にはエンターテインメントとアートの要素があると思いますが、よりアート色が強い作品のように感じました。
杉本さんは文楽を材料にしてご自分のアート作品を作りたかったのだと思います。作品を完成させてご自分で眺めて良いものができたと満足したかったのだと思われます。文楽を観にきたお客さんをお芝居で楽しませることが目的ではなくて、杉本文楽という作品をわかる人だけがわかればいいと考えておられる。究極に言ってしまえば満足するのはご自身だけでも良かったのかもしれません。
アーティストとしてはそういう姿勢でも全くかまわないと思います。天才肌のアーティストはむしろ観る者に歩み寄らない孤高の存在である方が素晴らしいものが作れたり、価値が高く感じられるようなところもありますので、それはそれで一つの形として結構なのです。
映像収録用の公演(本来と違う公演)をわざわざ催すと聞いたので、なおさらそう感じてしまったのかもしれません。
先日ある能の会でテレビ収録のカメラが入り、演者さんが「観客の皆様にはご迷惑をおかけいたします」とおっしゃっいました。何気ない一言ですがテレビ収録というイベントも大切な中で、その場で観ている観客への心遣いが嬉しかったのです。今回はそれとは間逆の対応の気がしましたので。
人形遣いは主遣いも含めて全員が頭巾をかぶった黒子姿でした。舞台には手摺りがなく普段は見えない足もとまで全身丸見えです。
目立たないようにという意味があって黒子のはずなのに、なぜか出遣いの時よりも妙に目立って感じました。人形一体に三人の人形遣いですから、お初と徳兵衛の二人しかいなくても6人もの黒い人間がモコモコひしめいていてまるで羊の群れのように見えます。あぁ、いつもあんなに狭そうにやっていたのね、たいへんそう…。たいへんそうに見えるのは演出としてどうなのかな?
本来の文楽公演でも全員黒子姿の演目や場もあるというのに、今回殊さらそう感じたのは何故なのでしょう。全身が見えてしまっていることや、いつもは床のそばで見上げるように人形を見ていたのが、今回は上から見下ろす感じで観る劇場だったせいもあるのかもしれません。
個人的な感想では、主遣いは出遣いでも良かったんじゃないかな~と思います。人形の表情や指先の動きまでよく見えるような舞台間近の席で観られる人は例外ですが、ほとんどの人には全体は見えても人形の細かな動きや表情は遠くてよく見えていません。にも関わらずこれまで人形の動きや表情がよく見えているように感じていたのは何故か。
実は観ている方は、主遣いの顔の向きや目線、体の動きによって人形の動きや表情をとらえていたのではないだろうか。出遣いシステムは人形遣いのスター化がもたらしたと勝手に思い込んでいましたが、劇場が広い場合には出遣いの方が人形の動きをわかりやすく見せることができることに気付いて今の方式になったんじゃないかな、と思えてきました。
そういえば今回は観音巡りの勘十郎さんによる一人遣いが見どころの一つだったのですが、なぜかあまり人形の印象が残らなかったのです。床(大夫・三味線)の音楽の斬新さと背景のアニメーション動画のインパクトが強かったので、それに負けてしまった感がありました。出遣いであればバランスが良かったのでは…という気がしてます。
主遣いがいつもの高い舞台下駄を履いていなかったのも演出の都合なのでしょうが、いつもと違う高さで遣わなければならない左遣いや足遣いは辛いんじゃないかなぁ…と心配したり。そういえば三谷文楽でも舞台下駄を履いてませんでしたが、どういう演出効果を狙っていたのか知りたいところです。
三味線の譜面台が出ていたのが珍しかったです。本公演ではもちろん譜面は見ないで演奏しますし、その他の公演でも譜面を見ながら演奏したのは見たことがありません。清治さんが眼鏡をかけてめくっていたので実際に譜面を見ていたのだと思います。
観音巡り以外は本公演でもたびたび演奏していると思うのですが、今回かなり内容が違っていたのでしょうか。演出や曲が違っていたとしても清治さんご自身が作っていると思うんですけど。一回きりの舞台ならまだしも、欧州公演も含めるとかなりの回数を上演しているので暗譜してないわけがないと思うのですが。ちょっと不思議に思いました。
床は総じてとても良かったです。観音巡り、清治さん作曲の音楽は何か現代的な感じでテンポもリズムも良く、呂勢大夫さんはよく挑んでおられました。
天満屋の段、嶋大夫さんの語りは、杉本だろうが何だろうが関係ない、ワシはワシの浄瑠璃を語るんじゃ、的ないつもと全然変わりない感じが良かったです。
道行も良かった。5月公演ほどでなかったけど、やはり胸にこみあげるものがありました。ここは技芸員さん全員の本領発揮という感じがしましたので、杉本演出がもはやあまり気にならなくなっていました。
欲を言えば字幕があれば良かったんじゃないかな~と。解説つきの台本が500円で販売されていましたが、上演中は客席の照明は暗く落とされてしまい読めないですし、開演前に読む十分な時間もありません。アートに無粋な電光字幕はNGだというのはよくわかるんですけど。特に観音巡りは普段上演されていないものですから、ほとんどの人が初見ですし言葉も難しくわかりにくいので、字幕があった方が語りの面白さがもっと楽しめたような気がします。
私は(古典とコラボした)杉本作品がやはり好みではないと今回はっきりわかりましたが、技芸員さんたちの頑張りはよく伝わってきました。観てる間は太夫の語りや三味線の演奏、人形の動きをそれなりに楽しみながらも、やっぱり何だかな~ともやもやしていたりしたのですが、カーテンコールで汗びっしょりで観客の拍手に応えてくださった技芸員さんたちのお顔はみな晴れやかで、難しい要求に応えつつ全身全霊で演じて楽しませてくれたのだと感激しました。
野村萬斎さんの時は、杉本さんの個性に萬斎さんが飲み込まれてしまった感がありました(萬斎三番叟はやはり能楽堂で観るのが一番だと思いました)。しかし、今回の文楽は演出は変わってもこれまで古典で培ってきた自身の芸をそれぞれに貫いて撥ね返すだけのパワーがあったように感じました。伝統芸能と現代アートのコラボや、古典への現代演劇的アプローチには懐疑的な私なのですが、三業の技芸員たちの力量によってかえって伝統芸能の底力と揺るぎなさを感じることができたように思いました。観ないままでは何も評価できないし、こんなにいろいろ考えてしまうほどに自分はやはり文楽が好きなんだと再認識できたので、観に行って本当に良かったと思います。
これをきっかけに文楽を初めて知ったり、本来の文楽公演も観に行きたいと思われたお客さんがいらっしゃれば何よりだと思います。むしろ、これを見ただけで文楽はこういうものだと思い込んでほしくない、ぜひ本当の文楽に触れていただきたいです。
もし可能であれば観音巡りをいつの日か、東京か大阪の本公演でも上演できる機会が訪れればいいなと思います。
意欲的に取り組まれた技芸員の皆様方の努力には敬意を表し、本当にお疲れ様でしたと申し上げるばかりです。大阪公演でも数多くのお客様に楽しんでいただけますよう、皆様方のご活躍を願っております。